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八ヶ岳南麓「子育て・人生談話室」 代表/小池一彦
養護学校、小学校・情緒障害児学級など、障害児教育を中心とした17年間の教員生活を辞し、2002年春、山梨英和大学人間文化学部に社会人編入学(3学年より)し、心理カウンセリング分野を専攻。2004年春、首席で卒業。卒業後、(社)日本心理学会が認証する「認定心理士」の資格を取得、当談話室を開設。現在、長野県スクール・カウンセラー。私立さくら国際高等学校・高校カウンセラー。
前・長野県総合教育センター夜間電話相談員。 |
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私は、現在63歳。妻と、大学を卒業し、33歳になる娘を筆頭に27歳の末息子までの4人の子ども(上から女男女男の順)と、母との7人家族で、子育て奮闘中です。実は、こんな家族を持ちながら、この年にして21年前、自分の生き方を、公務員である小学校教員から自営の「子育て・人生談話室」へと針路変更した、「無謀者」でもあります。
2002年の春から2年間、大学の心理カウンセラー養成課程で心理学の基礎を学び直し(3学年からの編入学)、卒業しました。その後、取得単位の申請で得られる「認定心理士」という認証資格を元に、カウンセリング・ルームを開設して、今年20年目を迎えるに至りました。また、それと並行し、長野県のスクール・カウンセラーにも採用され、高校カウンセラーとして、長野県の公立高校での実践も20年目に入り、さらに、縁あって勤務させていただくことになった私立・さくら国際高等学校(長野県・上田市)での実践も16年目を迎え、生徒さんや保護者の方々の支援を中心に経験を重ね、取り組んで参りました。
さて、私は、17年間の教員生活の内、養護学校生活7年を含む15年間、障害児教育に携わってきました。その中で感じさせられたことは、障害を持った子どもたちの純真な心に映し出される、私自身の心の在り様です。子どもに寄り添うことができ生き生きと活動している自分や、疲労やストレスが溜まり充分に寄り添うことができずにイライラしている自分など、子どもさん一人ひとりが、そうした私の心の在り様を純粋に反映し、この上なく輝かしい笑顔を向けてくれたり、逆に怯えたような表情で落ち着きを欠いた状態を見せてくれたりしながら、その時々の私の様子を的確に知らせてくれていたのです。
このような生活の中で、徐々に強めていったのは、「健常者と言われ、かつ大人である私の心よりも、障害児と呼ばれる子どもたちの心の方が、より純粋で、人間らしくあるために大切な暖かさや、自然に人を信じようとする清らかさを、深く(揺ぎなく)備えているのではないか?」という漠然とした疑問でした。意識的(知的)に社会の一員として生活していくこと以前に、その子がその子としてそこに在ることの大切さ、その子が社会に合わせるのではなくて、社会がその子に寄り添って柔軟に変化していくことの大切さを、折りある毎に伝えられながら過ごしていました。
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やがて、私は37歳を迎え、自分が心身症であるということを受け入れ、心の問題に向き合わねばならなくなりました。心理学の世界で「思春期の危機」と並び、近年、より多く語られるようになった「中年期(思秋期)の危機」を乗り越えるための機会が、私に巡ってきたと言えます。
具体的には、カウンセリングやグループワークにおける「自己(自分)への気づき」の機会です。そこで気づかされるのは、善いところばかりではありません。多くの悪いところ醜いところも含みます。それら全てが、掛け替えのない自分の一部なのだということに、気づかされ、徐々に自己受容できるようになっていきました。
自分の醜い部分は、それを嫌って無意識の方へ追いやってしまうこともできるのですが、そうしている以上、真の安らぎを伴った幸福感には辿り着けません。むしろ、最初は受け入れることを拒否したい気持ちが強くても、徐々に自分の一部として認められると、その方がより安心できるという真実が、体験的に理解できるようになっていきます。このような中で、私は、心のゆとりや自信を強め、「ありのままの自分で居る」ことの大切さを実感できるようになってきたのです。
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それと並行して、私は、ユング深層心理学や仏教(親鸞聖人の浄土真宗を中心とする)の教えに学ぶことを通して、これまでの人生や心の変遷過程を、心理学的に裏づけることができたように思います。殊に、ユング心理学を学ぶ中で、子どもの心と私たち大人の心は、どちらが優れていてどちらが劣っているというのでもなく、また、どちらが成熟していてどちらが未熟であるというのでもなく、「その時、その瞬間、唯、共に違ってそこに在る」という重要な点が知れてきました。そして、共に違うからこそ、互いが互いの不足部分を照らし合い、補い合い、死を迎えるその瞬間まで、それぞれに成長し合っていくことができるのだという、その自覚が深まってきたのです。
言い換えるならば、大半の人間は、成人し大人になっていく過程で、誰しも心の奥に持っている、「思いやりの心や慈しみの心」をいつしか忘れ、「物質的に恵まれ、社会的に認められること、それこそが幸せなのだ」という強い錯覚を持ってしまいます。また、周囲の期待に応えられている間は、自分を信頼することができても、期待に応えられなくなった瞬間から、大きな不安を感じ、信じるよりも疑うことを優先させてしまうことが、よくあります。同様に、周囲の人に対しても、自分の期待に応えてくれている間は信頼することができても、期待を裏切られた瞬間から、信頼できなくなることも、よくあるように思います。
一方、子どもたちは、大人のように固持しようとする価値観をまだ確立していないため、逆に心の奥深くに持っている思いやりや慈しみの心と、直に触れ合うことができているのです。実は、私たち大人が、「子どもの面倒を見てやっている」ようでありながら、逆に、子どもたちの柔軟な心の方が、思いやりや慈しみの心と呼応しながら、欲望にまみれて傲慢になりがちな私たち大人の在り様を、広く暖かく包み込み支えてくれているのだと、私は深く気付かされてきたのです。どんなに辛く当たろうとも、「お父ちゃん」「お母ちゃん」と呼びながら、最後まで親を信じようとする子どもたちの真直ぐな心に、私たちは常に守られ、今を生かされているのだと思います。
私は、心のことを学ぶ中で、こうした確信を強めてきました。気づいてみると、この確信は、私が障害児教育に携わっていた頃に、心のどこかで感じ始めていた、「子どもたちの方が、より人間らしい心を持っているのではないか?」という大きな疑問の、答えだったのです。
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子どもの様々な問題行動に対して、何々症、何々障害と種分けをして理解していくことも、それはそれとして意味があるのかもしれませんが、私はそのことにあまり大きな意味を感じません。私たち大人が、一人ひとり確かに違うのと同様、疾患や障害の有無にかかわりなく、子ども一人ひとりが、その子としてそこに居る。唯、それだけなのです。それだけで好いのです。 そうしたことの意味を、より深くより柔軟に気づき直していくことの大切さを、今、実感しています。
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